MY LIFE

Road to金龍⑥ 覚醒から金龍へ(230km〜276km)

 230.8km地点の島原城まで来るとPやボラの皆さんは「完走できますね」とおっしゃってくれる。いやそんなに甘くないと思う。なぜなら
①ここから先が関門時間との戦い
②残り46kmだが、眉山と雲仙の山越えが二つ(Pでも苦行)
③順調に進んでもまだ10時間かかる
④そもそも全国から猛者が集って、気候に恵まれても完走率は50%。
つまり、ここからが金龍になれるかどうかの最後の戦いのはず。

武家屋敷でO川さんと会う。別名「湾岸王子」。スーパーランナー。今回P。いつも励ましてくれる。「いいペースですね。金龍になれますよ」とニッコリ笑って、あっという間に見えなくなった^^
※彼の装備はLでも小さなウエストポーチ1つ。防寒はノースリーブのビニールポンチョのみ。走り続けることができる強くて速いランナーはこれで十分なのだ。

足の痛みでまともに歩けない。この10kmほど頑張って走ったツケ。ツケは必ず回ってくる。松葉杖状態。アイシングの必要性を感じ、最後のコンビニへ。エアーサロンパスは見当たらず(あるわけないよなとひとりごちる)。

眉山の登り
8km続くこの坂の傾斜は、上に行くほどきつくなる。松葉杖状態だが、登りは何とか進める。Pランナーがどんどん増えていき(抜いていき)、賑やか。声をかけてくださる方も多い。有難い。ここで馬場さんと一緒になる。いつも陽気で元気で助言をくれるスーパー「ちょいワルオヤジ」ランナー。痛みも’一瞬’忘れる^^

235km(湧水)
ボラにはさやかさん。エアーサロンパス持っていた!最高!ジョージさんと再会!抱擁してすぐにたつ。時間がやばいから。
※教訓:自分がボラするときには、胃薬・痛み止めに加えて、エアーサロンパスとテーピングを携帯すべし。

眉山の登りは目標ペースで必死に持ちこたえた(時速4.8km)。僕はウルトラやロング走では、km何分よりも時速何kmを指標にする。トイレや信号待ち、アップダウンやコンビニ、エイドでの補給や食事が入るので、時速の方が適切な目安になる。ラップをkmや時間ではなく、エイド毎にすると、走りながら、次の目標地点までの所要時間、到達時刻がある程度わかる。

「これでもかあー」と続く眉山の登りで最高標高点に到達した頃、知らないPランナーが声をかけてくださった。ウエアと体型、スタート時刻から、スーパーランナーだとわかる。
「秋Pは4回目。ウルトラまではよく走るが、100km以上はありえない」とおっしゃる。「僕もあり得ないと思っていたんですけど、2年前にPに出て、この先で、こうやってWランナーを見ちゃってですね」と。これはご縁なので超ウルトラのスカウティング活動。来春Lに出ちゃうだろうなあ^^なぜなら、興味がまったくなければ、知らない遅いランナーに、わざわざペースを落として、一緒に歩いて話しかけたりしないから。

239km(平成新山)
目標より早く到着。登りを頑張った分、貯金ができた。ボラは松本さん。原城の後、こちらへ移動。元気ハツラツ!ランナー心理をよくご存知だ^^記念撮影してすぐに出る。当初の目標時刻が遅すぎたことがわかってきたから。先を考えると1分でも稼ぎたい。エイドは安らぎの場だが、完走したければ長居は禁物。

 ここから悲惨だった。眉山の下りの痛みは想像を超えていた。激痛に耐えきれず、度々立ち止まり、ガードレール様のお世話になる。快晴、絶景の急坂を、3歩進んで痛みで止まる、みたいな感じを繰り返すことに。Pランナーがどんどん下っていく。田村先生も抜いていった。僕の状態をみれば、話しかけられる状況ではない。ついに、痛み止め(ロキソニン)を投入することにした。効果があるかどうかはわからないが、できる限りの手を打つしかない。松葉杖の下り方も少しずつ慣れてきたが進まない。

爆走していくWランナーがいた。伸くん&N島さん!すっげーなあ。「小川さーん、ガンバー」「はーい」。ほんの一瞬だけど、ずっと記憶に残るシーン。
※ゴール直後、彼と抱擁。「小川さんとあったとき、完走は無理だろうなあと思ったんですよ、あの状態だと」と言われた。だから、予想が外れてさらに喜んでくれた^^ナイスガイだ。

何十人に追い越されたかわからない。ひとりだけ、圧倒的な遅さで取り残されていく。そんなとき、家族が応援に。久しぶりの再会に元気をもらう。

過去の記録によると、二晩目、島原城を越えたにもかかわらず、ここから先の各関門時間に間に合わず、あるいは、動けなくなり、金龍になれなかった多くのランナーがいる。その気持ちと体の状態が手に取るようにわかってきた。これが金龍になることの難しさなのかあと。諦めたくないけど、僕にはやっぱりまだ無理なのかなあと。

そんなとき、またまた颯爽と駆け抜けていくランナーが。井上さん(福岡)!抱き合って、ペースを落として一緒に走って(歩いて)くれて、ほんの数分だけど、いろいろ話して、元気をもらう。折れそうな気持ちが復活した(彼もLでリタイア経験あり)。彼は仲間4人で走っていた。ウエアも走りも美しくて、惚れ溺れした。天気は最高、景色も最高、仲間も最高、とことん走らせてもらえる。まだ時間はある。痛みは痛いだけ、である。師匠岩永さんの言葉がしみる「小川さん、最後は気持ちです。本気で、どれだけ金龍になりたいか、です」

243km(水無大橋、10:40)
このままではまずい。手ぬぐいをクーラーボックスの冷水につけ、足首に巻きアイシング(師匠北さん直伝の手縫いは万能である)。かなり腫れている。サポートタイツが食い込んでさらに痛い(脱ぎたいが脱ぐ時間に余裕がない)。時計を見ると、わずか4.5kmの下りに1時間。かなりまずい。腫れが引くことはないので、ここから酷くなるばかり。
※3年前、初Pのとき、ここから先の登りで足が腫れ上がり、1km進むのに20〜30分かかった記憶が蘇る。雲仙地獄関門アウトでリタイア。

国道の緩やかな登り。痛み止めの効果か、登りだからか、友達に会えたからか、遅いなりに、そこそこのペースで進む。ボラで奮闘する師匠・岩永さんと会う。「小川さん、ここからですよ。行けますよ」と。こういうときの言葉に根拠はない。ただ、信じて励ますのみ。

247km(深江運動場、11:20)
目標時刻着。だが、平成新山までで稼いだ時間は、下りの大幅ロスで帳消しからマイナスへ。田村先生は休憩中。家族もいる。のんびりしたいが、足のことを考えると1分が惜しい。トイレだけ済ませてすぐにたつ。腹も減ったがエイドに食べ物がない。ガス欠状態。次の目標は難所「俵石展望台」

勾配が少しずつ、そして、どんどんきつくなる。PのU野さんと会う。女神大橋での写真撮影応援以来なので、二日ぶりぐらいだろうか。田村先生にも抜かれる。これくらいの勾配だとPランナーは走って登る。

ひとりで歩きながら、残りの距離と時間、コース、足の状態をいろいろ計算し始めた。手元のペース表を真剣に眺めてみる。すると、最終関門(小浜木場)とその一つ前の関門(雲仙地獄)との区間距離の計算間違いに気づく。実際は9kmちょっとあるのに、なぜか6kmと記載。血の気が引いた。ダサい。まずい。雲仙地獄関門は15:00。次が16:10。足元が悪く急な下り坂が続く9kmちょっとを、260km経過した足で、1時間10分では到底たどり着けない(Pでもきつい)。

ましてや、先の下りで僕の足は時速4.5km。足の状態は悪化しているので、さらに遅くなるはず。おまけに、今回はトレイルの迂回も入っている。実測はさらにあるはず。阿部さん(主催者)は、完走するためには、雲仙地獄14:30までと言っていた。が、僕の今の足だと14:00までに通過しないとまずい。ここまできてリタイアはイヤだ。

どうすればよいか。
いま勝負しても、今の足の状態では最後までもたない。かといって、下りで勝負は無理。結論、次の目標「俵石展望台」から最高標高までの登り5kmで勝負するしかない。計画&練習時に、メモに書いて、何度も言い聞かせていた「勝負は俵石展望台から」はやはり本当だった。俵石から覚悟を決めて走ることに決めた。

252km(俵石展望台,12:40,50時間40分)
妻に「かなりやばい」と正直に伝える。多分、悲壮感丸出しだったと思う。師匠岩永さんもいて、小さなジップロックに氷を詰めてくれて、足首に巻いてくれた。有難い。すぐに出る。気合いを入れるために、太ももをバンバン叩いた。何度も叩いた。随分先を行っていた田村先生やUさんにも追いつき、追い越した。Pランナーの多くを抜くほどだった。50分で登りきった。今振り返っても驚くほどの走りだったと思う。

下りになった途端、悲惨さは案の定だった。Pランナーに抜かれていったが、今度はもう時間がないので無理してついていった。雲仙地獄CPは「これでもかあ」と言わせるほど、遊歩道の最奧まで登らせる。足は痛いが時間がないので必死にペースをあげる。下りは悲鳴をあげる。家族と会う。雲仙地獄エイドに目標14:00ジャストに滑り込む。俵石からの1時間ちょっと。奇跡的な走りだったと思う。ゾーンに入った感じだった。

雲仙地獄エイド
この時間(14時)だと、PもWも皆さん完走ムード。和気藹々として賑やか。「小川さん、ゆっくり食べていかんね。もう金龍よ」と何人からも声をかけられた。が、いやいや、僕の足にはそんな余裕はないです、と。

家族からおにぎりとパンをもらって、すぐにたつ。ここまできて油断して関門アウトなんて、絶対に嫌だ。レースはまだ終わっていない。最後の最後まで何が起こるかわからない。転倒して動けなくなったらそこでthe end。「まさかの坂」がある。

エイド付近で前田さんと再会。抱き合った。


聞けば、小浜でリスタートできずにリタイアしたとのこと。前田さんは2年前のWのとき、この雲仙地獄で15時ジャストに関門アウトになった。このエピソードはリタイア会で話してくださった。なんども一緒に練習したし、応援してくれるし、いつもニコニコ笑顔。重い病から復活してトライしてきた、心から尊敬する先輩ランナーと、ここで出会えたことは最後のパワーになった。

トレイルに入る。エリさん(大阪,morethan100+)とも一緒になる。彼女がいつも笑顔のわけは、チームスピリッツを実践しているから。そのスピリッツとは「100km以上の距離を笑顔で走る」。変態だ、いや素敵だ^^

エイドで休憩していた多くのランナーたちがあっという間に抜いていった。あと2時間ある。転倒さえせずに進めば、必ず間に合う。焦ってはいけない。とはいえ、歩いてばかりでは間に合わない。痛みを堪えて、走りを入れる。

師匠Y外さんは、前回Wの際、最後の関門時刻の1分前に通過して金龍になった。最後はkm4分台という奇跡的な走りだったとか。俵石の手前から、この凄さがどれほどのことなのか、走り云々よりも、その気持ちの強さが結果的に神がかり的な復活を呼び込むんだと思う。心が折れそうになったときに、僕にも諦めなければきっと金龍にさせてもらえるはずだと信じて1秒、1分をサボらず進んだ。
U野さんが追いついてきた。少し話せた元気になった。U野さんから「小川さん、さっきの登りの走り、泣きそうになった」と言われた。そうかあ。僕は泣きながら走ってたんだよなあ。最終関門まで、あと一息のはずだが、進まないので地味に長い。
なんとなく見通しが立ってきた。田村先生が追いついてきた。先生の足もかなりやられているようだった。先生と田舎道をのんびり歩き、走りながら、最終関門を目指した。先生とは20年の付き合いになる。なんともいえない幸せな時間だった。

269.7km(小浜木場、最終関門、15:55、53時間55分)
最終関門(16:10)の15分ほど前に、たどり着いた。つまり、金龍ランナーにしてもらったのだ。エイドにはA川さん、さやかさん。抱き合って握手して、涙して、歓喜した。田村先生もP完走である。もう時間を気にすることはない。二人で座ってシューズを脱ぎ、話をした。何を話したのか記憶にない。

※最終関門を通過して。田村先生と。

関門時間ギリギリということもあり、多くのランナーが涙していた。感動的な場所、時間だった。そんな中、必死な形相で駆け込んでくるランナーが。コーセー先生!T田さん!みんなで抱き合って健闘を称えあった。

エイドでのんびりした。ホッとしたがゴールまで、まだあと6km。田村先生、T田さんと雑談しながら進む。少しして、僕が先を行くことに。一人の時間。美しい夕日。

久しぶりに写真を撮る。「あー、これで終わりかあ」と。なんともいえない幸福な時間と経験だった。

残り2kmぐらいのところで、次男イッペイが迎えに来てくれた。珍しい。心配したんだと思う。妻と娘も。
最後、小浜の海岸線に出る。F岡さんもいた。健闘を称え合う。言葉にならない握手だった。

見慣れたゴール風景
金龍ランナーとしてのゴールは、次元が違う気がした。ゴールテープの前に、H瀬さんが座って応援していた。抱き合った。師匠岩永さん、北さん、阿部さん、KIMIさん、伸くんなどなど。橘湾岸を通じて出会った尊敬するランナーたちが、一緒に涙を流して喜んでくれた。いつもクールで泣かないような人も涙を浮かべていた。

※一緒に練習した仲間たち(金龍同期生!)


※伸くん
ゴールタイムは55時間32分。目標設定は55時間30分。
僕が完走できるとすればこの時間、まさにその時刻だった。

※ゴール後、師匠の岩永さん、北さんと。

何をどう感じたのか、思い返せない。
「金龍になりたい、では、金龍にはなれない」
意志の力とはなにかを、言い訳無用で、頭の先からつま先まで、叩き込んでくれる、
大切なものは何かを、教えてくれる、
幸せとは何かを、教えてくれる、
人の力の凄さを、教えてくれる
美しい景色や食事と水のありがたさを、教えてくれる
それが僕にとっての超ウルトラの醍醐味ではないかと思う。

ゴール後
温泉に入り、割当ての部屋へ。25人の大部屋。
布団がきれいに敷き詰めてある。到着時間が遅かったので、殆ど埋まっていた。空いている場所にいくと、隣は師匠K井さんだった。「小川さん、よかったですね」「有難うございます」。短い会話だが、深い会話だったと思う。たくさん教えてもらって、励ましてもらって、練習にも参加させてくれて、いつもユーモアのある師匠に感謝。

写真は僕の右足。
師匠の片足は、僕の何倍も腫れ上がっていて、アイシングしているところだった。僕の痛みなど、師匠の痛みに比べたら、屁みたいなものだった。

19:00大宴会
ジョージ夫妻やみんなとたくさん話してお酒を飲んだ。23時過ぎまで飲んで喋っていた。元気なのか、ハイなのか、アホなのか。

朝練
湾岸では朝練という恒例行事がある。翌朝3時頃から「飲み会」を始めるのだ。AM6時。本当にやっていた。超ウルトラランナーはタフである。変態である。アル中である。上には上がいる。だが、ここの世界にだけは、憧れもなく、入らないと決めている^^

翌朝〜健闘を称え合い、再会を誓ってお別れ〜

師匠K井さん(右)、H瀬さん(中央)、鬼軍曹KIMIさんと。大会翌朝。お別れ。

妻、家族、湾岸ランナーのおかげで、憧れの金龍の仲間入りをさせてもらえた。
きついとか、つらいとか、痛いとか、確かにそういう部分はあるけれど、それはごく一部に過ぎず、それとは比較にならないほど、次元の違う素晴らしい至福の世界が、超ウルトラにはある。自分を成長させてくれ、人生をより豊かにしてくれる。
超ウルトラはパラダイムシフトの格好の機会。多くのランナーがいろんな助言をくれるけれど、金龍ランナーの言葉は、世界観が違った。だから、金龍ランナーが見た景色、見える世界を見てみたいと思った。

僕が見た景色は師匠たちが教えてくれたことは本当だということ。
超長い駄文を書き連ねたけれど、いつかどこかで誰かのための助言の一つにでもなれば幸いです。完
Road to 金龍① 覚悟と準備

Road to金龍② スタートラインに立てる幸せ
Road to金龍③ 一夜目の夜間走(55km〜113km)
Road to金龍④ 茂木〜小浜中継点(113km〜173km)
Road to金龍⑤ 幻覚と復活(173km〜230km)
Road to金龍⑥ 覚醒そして金龍へ(230km〜276km)
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私が書いています

代表取締役 小川勇人(おがわはやと)

代表取締役 小川勇人おがわはやと

1973年長崎の小さな工務店の長男として生まれる。2000年頃、シックハウス症候群と様々な社会問題が子育ての住環境に起因していることに気づく。以降、子育てを優先した家づくりに徹する。日経ビジネス誌にて「顧客の人生を助ける善い会社」として紹介(2015),著書「暮らしは変えられる」(2008)#妻と二男一女#ウルトラマラソン#登山#MBA(長大大学院,2014)#熊大工学部(1996)#長崎東#福大非常勤講師

暮らしは変えられる 「子育て優先」という選択 小川 勇人  (著) 小川 勇人のFacebook
子育ては、小川の家。