MY LIFE

Road to 金龍① 覚悟と準備

挑戦するきっかけ
それは前回大会(2015年秋)にて、250km地点で北九州のN田さん(74歳)、それをサポートするK井さん、そして、長崎のY外さんの戦う後ろ姿、前に進む姿に感動して心を揺さぶられたこと。当時私はP103km(以下P)にリベンジ中(80km)。彼らは、前々日からすでに50時間近く、歩き、走りっぱなしである。その精神力に、体力に、なによりその気迫に、心が震えた。

W完走者には「金龍ランナー」の称号が与えられる
それはタイムに関わらず、制限時間内にWの難路を踏破したことに対するリスペクトからである(※金龍の由来はこのコースが龍踊りの形に似ているから)。

橘湾岸ではL173km(以下L)を完走すると「次はWですか?」と聞かれる。2015年春、Lを初挑戦でギリギリ完走した私にとって、その先さらに103kmなんて到底考えられなかった。

Wは誰でも挑戦できるわけではない。
エントリーには資格要件がある。それはLとPを完走した者に与えられる。つまり、Wとは「LとPを完走できたら、挑戦する権利がありますよ、あなた、やりますか?」という主催者からの究極の挑戦状なのである。2015年秋Pを完走した私はW挑戦権を獲得。挑戦できない理由がなくなった。そこから2年後のW挑戦、金龍ランナーを目指しての戦いが始まった。戦うといっても、戦う相手は自分である。

2016年春Lは、完走というよりもWに向けて、試走的な位置付けとした。前回のLの反省や苦い経験を克服すべく、装備やペース配分、師匠の助言などを試した(例えば、茂木で風呂に入る)。結局、悪天候のため130kmに短縮完走。

とはいえ、100km超、一昼夜のレースに少し慣れてきたのが実感できた。2016年秋はボラ。不眠不休でランナーを支えて下さる方々の思いやご苦労を経験できた。収容班を担当し、リタイアする方々のいろんな姿を知ることができた。大会は最小人数のスタッフにより、ギリギリのところで開催され、大会で走らせてもらえること自体への感謝の気持ちがより高まった。大会に敬意を表し、中途半端な気持ちでWに出てはいけないと思った。なぜなら、Wは主催者・ボラにとっても3日間不眠不休の全身全霊をかけた戦いだから。

2017年、勝負の年。
事務局から年賀状が届く。そこには新年の挨拶ではなく「お前、Wやる気あるんかい。しっかり練習する気概はあるか?(絶対完走するという気合がないならエントリーするな)覚悟してかかってこいや」という、ある意味、果し状だった。

 昨年末、スケート場で転倒して肘を骨折したこともあり、走れない時期のこの果し状。とはいえ、挑戦できない理由はないので、2月のエントリー開始と同時に申込む。

まず5月Lの目標は30時間以内の完走(前回32時間)。これがW完走への第一条件。主催者・阿部さんからもそう助言されていた。なぜなら、最低それぐらいの走力がないと、小浜中継点での休憩仮眠時間が確保できないから。ここで仮眠できないと、完走は極めて困難になる。また、ある方からはフルマラソンで最低サブ4ぐらいのスピードも必要だと言われた(実際、金龍ランナーでフルのベストがサブ4.5はいない)。

1月。ウォーキングで月間220km。歩く練習もWには必要だと割り切った。月間300km以上を最低ノルマとし、師匠や諸先輩の助言を踏まえ、質を少しずつ高め、変えた。
2月。肘を固定しながらショグ開始。

3月。夜間走で「雛祭りラン」を企画。湾岸S55kmのコースを小浜まで(真っ暗闇のジャガイモ畑にてみんなで道に迷う早朝6時の公衆浴場は気持ちよかったな。楽しかったな、くだらなくて^^)。

「さが桜フル」サブ4.5ぐらいはいけると思って臨んだが、今年も悶絶して4時間58分。このとき、スピードは諦めて、W史上初のサブ5金龍ランナーを目指すことにした。
4月。「ジョグトリ伊万里63km」8時間半でしっかり走れて、いい感触だった。

5月。Lの大会当日は、酷暑に高温多湿に、夜は雨、蒸し暑く、二日目はさらに酷暑というL史上もっとも厳しいコンディション。そんな中、最後の最後にランナーズハイになり、ギリギリ30時間切りを達成(完走率55%)。正直、これはかなり自信になった。レース中、唐比(150km)付近で熱中症により、ぶっ倒れそうな状態に陥ったにもかかわらず、小休憩と補給で、諦めなければ復活する、を経験したのは大きい。これでWスタートラインに立つための最低条件はクリアした。

高校の同級生:優もM80kmに参加^^サブ3.5ランナーはさすがの走りだった^^

6月。「むかつくダブルフル(84km)」初の出稽古で山口県へ。時速8kmペースを試した。が、40kmであえなく撃沈(なかなかの激坂オンパレードだった)。完走したがひどい目にあった。ペース表を作ることは大事だが、だからといって、ペース表に縛られること、走力以上のペースで走ると、想像を絶するほど痛い目にあうことを骨の髄まで味わった。他方、内臓がやられ、飲まず食わずでも、40km以上進めることがわかった。

その後、週末ごとに40km〜50km走を一人でこなす。幸い、自宅が野母崎半島にあり、いつものジョギングコースが湾岸コースという恩恵をありがたく頂戴する。外海海岸マラニックも新たなコースに加わった。

コンビニ休憩や食事、トイレ、無補給、飲み物など、どれがどの程度なら大丈夫か、休憩時間も含めたペース(時速)もいろいろ試す。超ロングのためには、ロング走で疲れない状態で終わるペース、胃に負担をかけない補給を心がけた。練習すると決めた日が雨でも、雨の中の練習だと思って走るようにした。なぜなら、大会当日(3日間)もどこかで雨かもしれない。

7月。「梅雨の夜だから朝まで走る会@55km」半端じゃない蒸し暑さ。苦笑いを通り越すほど、ひどかった。

でも、みんなで走れて、早朝、伊王島で温泉&ビールという遊びを知る。この練習会を通じて、新たな仲間との出会いがあった。とくに今回、金龍同期生となったスガポンさんとは、以降、一緒に何度も練習して、次元の違う刺激を受けた。

8月。夏場の走り込みが秋に生きるはずと信じて、酷暑でもロング走を継続。
「ぐるぐる練習会@北九州, 52km」精神修行のために、師匠K井さん主催に参加。

それにしても、北九州URCの方々は変だ^^非常に勉強になった。

我がホームマウンテン八郎岳にて「八郎岳バーティカル」
これは面白かったなあ^^30分で一気に登る。僕以外、みなさんサブスリー^^

お盆。「西海橋ラン@40km」スガぽんさん主催に参加。この日も含めて3日間で計100km(このとき、某金龍女子は鹿児島方面を200km走っていた)

お盆明け。「朝まで走る会@55km」この時は、福岡から女性金龍ランナーT田さんも参加してくださり、走りや補給、足の疲労回復など勉強になった。

朝まで走る会(夜間走)の楽しさは、夜遊び感と星空と、怖さと、猛烈な睡魔と、朝焼けで元気が出ることかなあ^^

早朝6時。ゴール地点の伊王島ではお約束のビールです。

月末。家族で北アルプス登山。60Lのザックを担いで、標高差1,500mを6時間かけて登った。これもいい練習になった。

9月。最後の走り込み。目標は400km超。
お一人様100km走もやってみる(結局80kmでやめたが、そこそこ自信になった)。これは師匠K井さんから「9月に1本ウルトラを」という助言に従った。


妻に迎えに来て貰う回数も随分減った。

あわせて、北アルプス奥穂高岳登山へ。二日間で40km。寒さ対策にもなった。

月末には、最後のロング。精神的に一番きつい野母崎半島フルコース。お一人様65km。

173kmあの先まで走って、そこからあの半島回って、あの山二つ登ってゴールとか、無理だよなあとひとりごちる。

人生初の月間400kmオーバーの420km

10月。仕上げ「眉山、雲仙の激坂登る会@47km」師匠岩永さん主催。しっかり走れた。これでいつでも雲仙、眉山は、走って登れる自信がついた。

最後のもう一本、軽い夜間走を予定していた時、師匠T田さんたちが福岡から長崎へ夜間走〜野母崎半島へ試走にくることに。稲佐山など30kmちょっと一緒に走らせてもらう。T田さん、Sさんという二人の金龍ランナーの走りはやっぱり桁が違う。前週も100km走ったとか。練習量も桁違い。さらに桁違いのユキヒロさんもいらっしゃっていて、経験知をたくさん教えて下さった(僕にはまだ使えないけれど・笑)。

あとは、疲れをとることを最優先。私の場合、2週間では疲労が抜けきれないので、やはり3週間必要。Bさんの「休むのも練習」を言い聞かせ、走りたいけど走らない。練習量を減らす代わりに、完走に向けて、レースプランを練ること、ウエアなど装備の最終準備にシフトした。

レースプランを練る

参考にしたもの

①前回大会の各ランナーの通過記録(リタイア者含む)
②自分の練習や過去の大会での経験(疲れずに進めるペースはどのくらいか)
③師匠(金龍ランナー)の助言

夜間走:半年間で5回やったので、1日目の睡魔はなんとかなる。問題は二晩目の夜間走。誰に聞いてもひどい話ばかりで、リタイアがいちばん多いゾーン。有効な手立てを誰も持っていない(ある師匠は「こんちくしょう!と叫べ」とか)。

僕の結論は、小浜中継点で2時間仮眠できるようにすること。どうしても眠いときにはこまめに仮眠をとることにした(ふらつきや転倒したら大怪我、失格になる)。そのためには、お風呂、食事、着替え、荷物の整理、移動を考慮すると16時30までには着きたい。前半Lを30時間30分。春、全力で行って30時間だった僕が、余力を残してこのタイムで走らなければならない。これが練習における課題の一つであり、レース当日のマネジメントの必須要件となった。Lをウォーミングアップのつもりでいけるようになること。速く走ることよりも疲れずに前に進むことを練習(40km〜80km走)で繰り返した。
ペース表の作成=マイペースとは何か
細かく作るつもりはなかったけれど、きちんとつくることが完走に近づくのではないかと判断した。この距離を勢いで乗り切れるほどの実力は自分にはない。自分の走力からすると、完走できるとしても制限時間いっぱい。ゆえに、前回大会の通過記録を眺めて、55時間前後でゴールした方の通過時間を一つの参考にした。これで明らかになったことは、
・前半早いからといって完走できるわけではない(前半の貯金が必ずしも貯金になるとは限らない。結果的にオーバーペースが仇となる)
・240km以降、とくに最終関門263kmでの関門アウトがかなりいる(最後に、体が動かなくなって力尽きる。これは相当つらい。絶対に避けたい)

結論:私の方針は
「勝負は俵石展望台から(252km)」
「最後の最後まで力はとっておく」
とした。
そこまでは、何が何でも気力と体力、足を最小限しか使わず、焦らずに進む。
やるだけのことはやった(と思う)。
これで完走できなければ、それは自らの準備と努力が不十分だったというだけ。

Road to金龍② スタートラインに立てる幸せ
http://ogawanoie.jp/blog/2346
Road to金龍③ 一夜目の夜間走(55km〜113km)
http://ogawanoie.jp/blog/2361
Road to金龍④ 茂木〜小浜中継点(113km〜173km)
http://ogawanoie.jp/blog/2396
Road to金龍⑤ 幻覚と復活(173km〜230km)
http://ogawanoie.jp/blog/2410
Road to金龍⑥ 覚醒そして金龍へ(230km〜276km)
http://ogawanoie.jp/blog/2423
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私が書いています

代表取締役 小川勇人(おがわはやと)

代表取締役 小川勇人おがわはやと

1973年長崎の小さな工務店の長男として生まれる。2000年頃、シックハウス症候群と様々な社会問題が子育ての住環境に起因していることに気づく。以降、子育てを優先した家づくりに徹する。日経ビジネス誌にて「顧客の人生を助ける善い会社」として紹介(2015),著書「暮らしは変えられる」(2008)#妻と二男一女#ウルトラマラソン#登山#MBA(長大大学院,2014)#熊大工学部(1996)#長崎東#福大非常勤講師

暮らしは変えられる 「子育て優先」という選択 小川 勇人  (著) 小川 勇人のFacebook
子育ては、小川の家。