妥協すべきは願望ではなく要望です
早朝の静かな事務所は、自然と思考を深掘りする場になります。
「子育て中」といっても、年収も職業も地域も年齢も異なる家族からご相談を受け、実現させていく仕事をしているわけですが、実現させていく過程で、妥協が必要になってきます。諦める、という表現が適切かもしれません。望む暮らしが実現しない夫婦は、それを自分たちが実現させないだけで、実現できないわけではない。
他方、OBから送られてくる年賀状を見ると、何を妥協したのか、忘れてしまうほど、幸せオーラが伝わってきます。
私が一般的な住宅会社、工務店、ハウスメーカー、経営者や企業、ビジネスパーソン、セールスマンと本質的に異なるのは、要望ではなく、願望に応えることを中心に据えているからです。
願望に応えることを中心に据えると、願望を叶えることはできます。なぜならそのために知恵を絞り、資源を集中投入するからです。
他方、要望を全て満たすことは不可能です。なぜなら、要望にはキリがないから。全ての要望を満たす解決策は存在しない。
同じ物事でも、ある人にとっては、それが要望の人もいるし、願望の人もいる。
例えば「子どもをのびのび育てたい」「笑顔で健康に暮らしたい」という日常と人生が、「できれば」という要望の人もいるし、「なんとしてもそれだけは」という願望の人もいる。私は後者の方を対象にしている。
誰もが健康第一というけれど、不健康な生活を送っている人はたくさんいる。家族が大切といいながら、家庭を犠牲にする人もいる。
願望を叶える人は、要望を妥協する。例えば、ハワイに何としても行きたい人は、円安でも航空券代が多少高くても買う。ここでいう要望の妥協とは旅費である。予算が30万円以内で、最低限35万円かかるとすると、必要経費と考えて行く(あるいは時期をずらすか、ホテルのグレードを下げる=要望の妥協)。安くなったら行く、いつか行きたい、という人は、円高でも定年後でも行かない。
さて自問です。
あなたの〜したい、は要望なのか、願望なのか。
それが死にいたる人生において実現しなかった生涯をイメージした場合(今はまだ実現していないので実行しない限り実現しない)、大した問題ではないか、それはまずい、嫌だ、後悔すると思うか。
不妊治療をされる方々は、その数年前までは、赤ちゃん、子どもを求めていなかったんだと思います。「できれば欲しい」もしくは「子供はいらない」それ以前に「結婚しない」だったかもしれません。人生は生き物です。前提は変化していきます。
要望が願望に変わるとき、あるいは、ふとしたきっかけで願望がいきなり生まれるとき、さてどうするか。
マイホームが欲しかったわけではない方が、子育ての家を建てるのはなぜか。
家が欲しいわけではなく、子どもをのびのび育てたい、家族笑顔で健康に暮らしたい、それが願望になったからです。そのきっかけは、自身の心身の体調の悪化かもしれないし、子どもの問題かもしれない。隣人からのクレームかもしれない。自身と子供と家族の安心、安全、自由な人生をなんとかして確保したい。
願望を叶えるために行動し始めると、そこにはまた要望がたくさん誕生してくる。多種多様な要望です。広さや間取り、価格、利便性や立地だけではない、金利、タイミング、親、両家の親の理解や賛同なども含めて。
願望が中心だったはずが、気付かぬうちに、周りの要望に振り回され、肝心要の願望が消えていく。
私の役目は、願望を叶えること。要望に応えるために存在する住宅会社や工務店、ハウスメーカーは全国各地に、星の数ほど存在する。
願望が叶うことが確保されたら、次に、要望を叶える。要望の中でも優先順位の高いものから一つ一つ叶えていく(ここはもう私の役割ではない)。順序を間違ってはいけない。順序を間違えると要望だけでなく、願望も実現しない。つまり、私は、この仕事のプロとしては、役立たず、社会にとっても不要となる。依頼主との約束を破ったことになる。願望実現が先であり、要望は後である。要望がどれだけ満たせるかは、本人の経済力と社会情勢の問題。
年賀状、まさかの4人目!
Nさん、要望をたくさん諦めたけど、大切なものは手に入れた。大切なものを実現させるために要望をあれこれ諦めた。家づくりの時は、第二子、妊娠中だったような。数年後、3人目、4人目の子宝に恵まれた。これぞまさに、願望を叶える子育て優先の家づくりです。
補足:chat gpt に聞いてみた