判断はその人間の鏡
問い:
「子どもの心身の健康が何より大切と言いながら、
現実的には劣悪な住居が子育てによいと判断している夫婦を
本質的には『どんな親』として認識すればよいのだろうか」
※資金制約を除く
再読中の一冊
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以下抜粋・・・
「実存は本質に先行する」はサルトルのことば。
解説:
特定の状況下でどういう判断をしたかによって、
その人間が本質的に「何ものであるか」が決定される。
(「根はいい人なのだが現実的には悪いことばかりしている人間」は、実存主義的には「悪もの」と評価される」)・・・
家づくりは勿論、前段の「子育て環境の決定」は、特定の状況下。
妻子(夫子)思いのパパ(ママ)がいる。
いつもやさしいと評されるその人間が、
本質的に「何ものであるか」は、
「何を語っているか」ではなく、
「どういう判断をしているか」によってのみ
決まる(評価される)ということ。
妻(夫)から渡された1冊の書籍すら、読まない。
読了しても「何も判断しない」※先送りすら決めない
子育て夫婦にとっての「子育て優先」とは、
ことばや思いではなく判断です。
初読は、冒頭の一節に線を引いただけ。
今回は、腑に落ちた。
本質的に「何ものであるか」は、
その人のことばではなく、判断によって評価できる。
(例:判断の先送りは、決めきれない人間の証明)
私自身が「何ものであるか」は、
特定状況下での判断によって認識できる。
小川さんは何もの?という問いへの答えは、
「何をしようとしているか」ではなく、
『どう判断してきたかで評価してください』となる。
分かりやすいといえばそうだが、怖いといえば、怖い。
弁明が通じないわけだから(苦笑)