奥さまの涙に思う〜愛とは与えること〜
2018/4/13
今日はTさまの上棟式
場所は福岡県直方市
大工さんの祝詞がはじまったとき、奥さまが、、、
ご主人「なん、どうしたん?なに泣きよるん」
僕は隣にいたのですが、僕もおもわず涙が、、、
初めてご相談頂いたのは、たしか、去年の夏。
「アパートの下の方からの苦情が、、、」ということだった。
ちょっとした子どもの泣き声どころか、足音ですら、下から棒で突き上げられる生活にストレス、ときに恐怖を感じ始めたそうです。古いアパートではありません。大手メーカーの最近のよくある賃貸アパートです。そんなとき、
「子育て 家」で検索したら「小川の家」(※現・子育ての家)が出てきた
それまでも、夫婦で、いろんな住宅メーカーや建売住宅を見て回っていたわけですが、そのときの検索条件は、〜市内、〜万円以内、おしゃれ、オール電化、4LDKとか、そういうキーワードだった。
家を建てること、将来的に、家を建てたい、ということについては、夫婦間で合意はできていたわけですが、それが「いつ」なのか「どんな家」なのか、そもそも「なぜ家を建てるのか」という目的、これからどんな暮らしや子育てをしたいのか、という人生の方向性や優先順位について、具体的に踏み込んで考えること、自問する、夫婦でしっかり話し合うことはしていなかったわけです。
ご主人の帰宅は遅い、日中は、住民からの苦情に怯える、子どもを必要以上に叱らなければならない、、、いつの間にか密室育児です。しかも怯えながらの。
「なんとかしたい」
かといって、経済的に余裕があるわけではない。
奥さまの切実な悩みに応えたい、と私は思うわけで、可能な限りの説明と助言をします。現実と本当のことを言います。しかし、肝心要は、ご主人がそれに対して、どう判断して、どう行動するか、すべてはご主人の判断にかかっている。
ご主人は、奥さまの声に、日常の苦しみに、寄り添い、なんとかする、という判断をし、根本問題解決を決めて、実行した。
ご主人は「妻と子どもの苦しみ、困りごとは、自分の困りごと」と感じる方だった。
私は常々、小川の家が実現するかどうかは
「お金の問題ではなく、愛の問題です」と伝えている。妻と子どもが夫から、愛されているかどうか、にかかっている。
夫が、妻と子どもを愛しているかどうか、にかかっている。
なぜそういうかというと、
私が結婚してもらった15年前のこと、
妻がカトリックということで、教会に神父様の話を夫婦で何度か聞きに行ったことがあります。
そのときの結婚とは何か、家庭とは何か、ということのなかに、
「愛とは与えること」
という話があった。
私はどうしてもひとつのことが気になって、神父さまに質問した
「それには、モノも含まれますか?」
つまり、愛とは与えること。
与えることとは、言葉や気持ちだけで十分なのか?と。
行為、行動は伴わなくても、愛している、と言っていればそれで愛しているといえるのか?と
神父さまは即答された
「はい。もちろん、モノも含まれます」
妻と子どもが安心安全に、快適に暮らせる住居とその環境というモノを与えるということは、まさに、愛している、ということ。
逆にそれをつべこべ言って与えないというのは、要するに、それを、愛していない、というだけです(自分は困っていないから)。
思いやりとか優しさとか、要するに、困っている人を見て、自分がどうするか、ということだと思うんですよね。
相談者の中には「俺を納得させてみろ」的な態度を妻に対してとる夫って、よくいらっしゃるわけですが、そもそもそんな状態に、そんな環境に妻を追い込んでしまっている自分のダサさ、甲斐性のなさに気づくべきで。
私はこの家づくりという仕事を生業にして、かれこれ20年を超えたのですが、記憶する限り、上棟式の祝詞で、涙を流されたのは初めてのような気がします。(相談時に泣かれることは度々あるのですが・笑)
奥様の涙は、いろんなことへの感謝と同時に、普通の住民が暮らす普通のアパートで身の危険を感じながら育児、子育てをしなければならない環境から、脱出できることの安堵感、いろんな思いが重なったのではないかと思います。
欲しいモノが手に入ったからではなく、
大切なものがきちんとある暮らしが叶うことの喜びではないかと。
涙の瞬間というのは、私たち小川の家の存在意義、価値を教えてくれる瞬間です。
正直、相談者に対して、率直に、説明したり、助言したりすると、嫌われることも多々あり、誤解を与えてしまうこともありますが、私は、家・マイホームを実現させるためではなく、家族の幸福な人生が過ごせる環境をつくるために、家づくりの仕事しているのだと、自社のミッションを確認できて、有り難かったです。
※持参した’短い’自撮り棒で大工さんたちと一緒に^^