子どもの「生きる」は迷惑行為か?
昨晩、大学院合格お祝いの宴席を姉が’おもてなし料理’で準備してくれた。
料理はどれもおいしく、会を重ねるごとに完成度の高さを食感する。
忙しい中、感謝
子供たちから手づくりの「合格証書」と「合格メダル」をもらった。
思わず、じーんと来ちゃいました。頑張って、卒業しなくては!
一通り食べてしまった後は、デザートタイムまで、
謙ちゃん&うちの子3人、まあー、大はしゃぎです。
日常のことですけど。
いつも思います。
子どもはたくさん走り回りたくて、大きな声を出したくて、泣いて笑って、歌って踊ってはじけて、それすべてが彼らにとって「いまを生きてる!」ことなんですよね。
日本の標準的な子育ての住環境を見渡すと、これらの子どもが生きる行為の殆どは「ダメ!」なケースが多い。コントロールするために、「おとなしく」させるために、テレビやゲームやらおもちゃやらで、餌づけする。いや、せざるを得ない。なぜなら周囲に迷惑がかかるから。苦情がくるから。
子供にとっては、生きることそのものが迷惑行為と捉えられる。
幼少期に自発的な意欲を奪われたとしても、
様々な教材、学校教育で、なんとかなるのかもしれません。
果たして、本当に、それでなんとかなるのでしょうか。
借金はイヤ
まだ先でよい
もう少し様子見て
自分の子どもの成長を実感できる親ならば、
子供の健やかな成長を自らの喜び、幸せと考える親ならば、
大事なのは「いま」であり、必要なのは「いま」であり、
だからこそ、借金してでも何とかしよう、となるのです。
私は確認したいですね、
「なんの様子をもう少しみる」のでしょうか。
株価でしょうか?金利でしょうか?総理大臣でしょうか?
子供の心身の発達は、株価とも地価とも無関係です。
「(住宅ローンがイヤなら)現金で建てるのは、いつになるのでしょうか」
まあー、詰まる所、「愛」なんでしょうね。
カネがないのではなく、愛がない。
お金も体力もあるが、妻子のよりよい暮らしのために使うカネと気力はない。
子どもをのびのび健康に育てたい。
ただその素朴な思い、願いを叶えるために小川の家は存在する。