
我慢して犠牲にしてはいけないもの
週末、市民プールへ
子どもたちとのかけがえのない短い夏が始まります
「我慢」and「辛抱」
3.11以降、頻繁に見聞きするようになりましたね
父親として、子どもに我慢させるべきか思案することがよくあります
同様に「私自身が」我慢すべきかどうか、考えることも多々あります
その問題とは、いつ、だれが、何を、どうやって、我慢すべきかについて、
子育てしている以上、向き合い、何がしかの結論を出すべき課題です
毎度のことながら、
そもそもそれって我慢すべき物事なのか、という問いから始まるのですが、、、
「シックハウスで子どもを育てたくない」
だから、それが叶う住環境が必要、というと
「我慢しなさい」という周囲(夫、義父母、実父母)がいる
下の句はきまってこうなる
「シックハウスで育てるぐらいが、
子どもを鍛えるのにちょうどよい」と
「ぜいたくなの?」
「わがままなの?」
と当人は悩む(別次元で、子どもは苦痛を味わう)
2DKの暑くて寒くて窮屈で光も風も入らない密室=収容所?がよいらしい。
なるほど、女・子どもが健康に、まともな精神状態で暮らせる環境を求めることは「理解に苦しむ」らしい。
私には到底理解できない「愛情表現」であり、判断&行為です。
早い話、「釣った魚には餌はいらない」ということですかね。
本当にそうでしょうか
「子どもの命、健康がなにより大事」
が口先だけのはずがない。
シックハウスで子どもを鍛える、なんて、
毒をもって育てるって意味です。
加害者は、実の親(祖父母)
被害者は、わが子(孫)
少なくとも小川の家によって、母親と子どもに心身の健康にとって
住まいが多大な影響を与えることを認識した以上、放置・先送りは、
子どもにとってはある意味、虐待です。
「子どもの命が何より大事」
命とは、時間×健康×意欲
今の住居での暮らしのメリットは、
わが子の命を犠牲にすることで得られている。
脱出する障壁は、自身が今得ているメリットと
わが子の命を「てんびん」にかけたときに、
「捨てがたい」という欲、この一点に尽きる。
3児の父となり、
小川の家OBの子どもたちの成長スピードを実感し、
幼少期の一日一日が、いかに大事でかけがえのないものかを痛感。
だからこそ、当ブログを読んでいるネットの向こうの母親たちには、
堂々巡りに終止符を打ってほしいと切に願います。
どれだけメリットのある暮らしなのか知りません。
子どもの命を守ろうとすると、どれだけ波風立つのか分かりません。
でも、大切なものは同じはず。
いま犠牲になっているのは、
自分たちの子どもの命であり、自分自身の命です。
住まいの問題は、子どもの命の扱い方の問題であり、
’生死’の問題ではありません。
ですから、’急がなくてもよい’的な先送り論に終始する。
負けちゃダメです。
小川の家と出会った時点で‘心は限界点‘なのです。
いますぐ同レベルで理解納得してもらえなくて’当然’で、
結果的には、一緒に、あるいは自分以上に喜んでくれます。
3.11以降、日本人の多くが、家族や子どもの命の大事さ、
人生のはかなさ、いつどうなるか分からない、
「自分ができることを、いま、やろう」と認識したはずだと思ったのですが
現実はそうではないように感じる日々です。
だからこそ、小川の家を必要として下さる母親、子ども、父親のために、
子どもの未来のために、今日も一日この命、大切に使います。
付記:
いずれにしても、夫婦の信頼関係に行きつくのですが、、、
価値観や意見の相違があれども、そのことについて
よく考えている方の意見を尊重する。
それだけができない夫婦が増えているからこそ、離婚増なんでしょうね。