叔父の25回忌に思う「世は無常」
昨日は叔父の25回忌でした。
享年53歳。
三菱重工研究所の研究者だった叔父は、
出張先のアフリカ,ケニアの地熱発電所にて、
調査中、事故死。
(助けに向かった現地の方も死去)
原因は自らのちょっとした不注意だったと推察されます。
当時18歳、高校卒業したばかりの私は、
遺族の一員として、
母に同行する形で遺体の引き取りに現地に行きました。
人生初の海外はケニア、遺体の引き取りです。
高校の授業で習っていた「世は無常」とは、
まさに、このことなんだということを経験。
あわせて、
世界は広いなあ、
価値観は多様だなあと、
多感で進路未定の時期の若者にとって、
アフリカの旅は、強烈なインパクトでした。
以降、「世は無常」という概念は
「どう生きるか」の判断基準となりました。
「いつ死ぬか分からない」と誰もが知っていて、
口にするわけですが、
余命宣告でもされない限り
「明日死ぬかもしれない」と想定して、
どう生きるかを考えて、生きる人など殆どいない。
私の場合、叔父の死、アフリカへの遺体引き取りを経験したことで
「命(時間)は有限」が現実としてインプットされました。
つまり、
自分がつまんないと思うことに命を使って、
いきなり死んだら、きっと後悔するだろうな、と。
それだけはイヤだな。
昨日再認識したことは
・やらずに後悔しそうなことはやっておく
・やってみたいことは前倒しでやっておく
そのためには
・やったほうがよいことはやらない
ということで、
嫌われる勇気を持って、
「Seize The Day!(いまを生きる!)」