MY LIFE

橘湾岸103km③~スタートから島原城57kmまで~


橘湾岸103km~スタートから島原城57kmまで~
深夜0:00、200名超のチャレンジャーとスタート。
歩道又は白線の内側をヘッドランプの明かりだけを頼りに走り始めます(沿道の声援も交通整理もない)。
皆さんかなりのハイペースで、あっという間に淳さんと二人きりに(苦笑)
これはですね、怖いです。
実際に、14km、21km、30km、41km、50kmのエイド以外で他の人と会うことは殆どありませんでした(1時間後にスタートした高速ランナーからあっという間に追い越されてしまうのです)。
真っ暗闇を、星空を見上げ、足下注意して、ときに車に怯えながら、
コンビニの明かりに感激し、他のランナーやボラの方々に会えると
嬉しくて声をかけずにはいられない、夜明けまで7時間の二本足の旅でした。
私の橘湾岸春のステージ4回の経験によると、焦りは禁物。
なので「とにかくゆっくり」を心掛けたのですが、22km、3時間弱を経過して、
夜間走にも少し慣れ、体も動いてきたので
「このままタラタラ行ったらダメじゃないかな」と思い、ペースをあげました。
10km程、パンパン快調に進んだのですが、午前4時頃、
原城趾の30km付近で急激に体調がおかしくなりました。
スタート時に「霊感スポットですから、女性はひとりで走らないように」と説明があったのですが、国道から脇道へ入ると、キーンと冷えてきて。
そして、30kmチェックポイント&同エイドで一気にヤバくなりました。
淳さんに先に行ってもらうようにお願いしたのですが「ハヤトさん、一緒に行きましょうよ」と励ましてもらいました。
正直「ここでリタイアか?」がよぎりました。
実際に、他の何名かはそこでリタイア申告なさっていた。
子どもがインフルエンザになった時点で、当日微熱が出た時点で、スタートラインにたつこと、できれば、夜明けまで何とか持ちたい、と心が負け始め、家族の応援合流地点が「午前10時、63km地点の平成新山」だったので、そこまでは何とか行きたいと。妻には午前7時に、電話することにしていました(リタイアor経過状況)
なので「いや、そう簡単にはリタイアしない。復活を信じて、まずは補給と休憩」と言い聞かせ、座ってエイド食の中華粥を(うまい!)。
これが胃を温めてくれます。
脱水の可能性もあったのでOS1(経口補水液)を投入。
頭もぼーっとして、胃も苦しかったのですが、もう一杯おかわりして、さらに胃を温め、防寒用に最後まで持って走るか迷ったフリースをここで着込み、少し歩くことに。
気温6度。少し体が温まり、コンビニがあったので、「ホッとレモン」を購入。
さらに胃と体を温め、スローペースながら徐々に走り始め「復活」。
要するに、飛ばしすぎたんですよね(苦笑)
30kmから40kmと順調にペースを刻み、午前5時頃にヘッドライトの明かりが弱くなってきました。え?新品電池でもう切れますか?
なんとかコンビニまで持ちこたえ、電池交換して視界も復活^^
午前6時半頃、夜が明けてきて、淳さんと「うおー!」感動ですね。中年オヤジ二人で^^
50kmまで順調に推移し、前半の大きな目標である島原城エイド57km(関門午前10時)が視界に入ってきました。
30km地点での体調悪化によるペースダウンのときには、
島原城到着が関門ギリギリになるのではないかと思っていたのですが、
結果的には、当初予定していた目標時間よりも50分弱の遅れですみました(8時50分)。
57km地点のクリアが見えてきたことで、そこから先の話を淳さんとしました。
平成新山の関門が11時20分。眉山ロードで標高500mを8kmの上りが続きます。
去年の記録では2時間近くかかっている方が多かったので、9時には出発したいなあと。
そうなると、補給は絶対だし、着替えをどうするか。
僕は気分転換も兼ねて着替えることに。
あとは、予想以上に暑かったので、何を着るか(2枚準備していた)。
島原城エイドに近づくに連れて、たくさんのランナーにあい、嬉しくて「先輩!」と声をかけながらエイドに到着。僕たちだけじゃなくて、他の皆さんもホント、感激した様子でした^^
淳さんはずっと体調が良かったというか、よくトレーニングを積んでいるのが後ろから見ていてよくわかりました。
行きの車の中でも「これだけ準備して、完走できなかったらウルトラやりません」とおっしゃっていた。集中しているのが伝わってきました。
実際に、60km、9時間近く経過しても殆ど疲労がない状態。
一方、私はイマイチながらもついていくのが精一杯で、完全に足を引っ張っている状態が続いていて、ホント申し訳ないなあと。何度も先に行って下さいと言ったのですが、一緒に行きましょうよ。と
淳さんはウルトラ初挑戦ですが、フル&ハーフマラソンの経験はたくさんありますし、バレーで鍛えた足腰、冬山登山もする程のアルピニスト。なので、山登りは強いだろうなあとは思っていましたが、上り坂を歩くスピードがハンパじゃないほど早い!(小走りじゃないとついていけない)
島原城エイドでも、次の関門が迫っているので、先に行って下さいと。僕にペースをあわせて二人とも関門アウトじゃあ、ダメですよと。それでも淳さん、「一緒に行きましょうよ」です。
はい。こうして淳さんに引っ張ってもらいました。




次回へ続く

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私が書いています

代表取締役 小川勇人(おがわはやと)

代表取締役 小川勇人おがわはやと

1973年長崎の小さな工務店の長男として生まれる。2000年頃、シックハウス症候群と様々な社会問題が子育ての住環境に起因していることに気づく。以降、子育てを優先した家づくりに徹する。日経ビジネス誌にて「顧客の人生を助ける善い会社」として紹介(2015),著書「暮らしは変えられる」(2008)#妻と二男一女#ウルトラマラソン#登山#MBA(長大大学院,2014)#熊大工学部(1996)#長崎東#福大非常勤講師

暮らしは変えられる 「子育て優先」という選択 小川 勇人  (著) 小川 勇人のFacebook
子育ては、小川の家。