不安に麻痺する
私は不安という言葉を口にすることはほとんどありません。
さらにいえば、あらゆるものごと、事象に対して不安というとらえ方そのものの感覚が麻痺してしまっている。
そうなった理由は主に3つあります。
まず、いろいろな苦い経験やギリギリ状況の連続に追い込まれながらも困難を乗り越えてきたから。
次に、そもそも不安というのは、あって当たり前のことだから、それをどういう言っても不安が解消されるわけでも発生しなくなるわけでもないから。ある種、不安が生じることそのものを受け入れる、ということかもしれません。
最後に、不安に思ったら、不安の芽を摘むことに徹する。そして不安を早期に解消する。
で、どうなったかというと、
不安に麻痺したという表現をよく使います(笑)。
先行き不安
そりゃそうです。突き詰めればいつ死ぬかも分からないわけですから。
「将来のこと、家づくりのことをいろいろ考えると、どうなるか不安です」
と相談されると、
「今の住居での子育てを、人生を続けることの方が、よっぽど不安になりませんか」と尋ねたい。
前向きな何かをすることによって、結果的に生じる不安より、
なにもしないことによって生じる不安、
考えを巡らせるだけで具体的な行為を伴わない不安の方が、
私はたちが悪いと考えます。
前者の不安は、先へ進むうちに自らの力や周囲の協力によって解消・解決されていきますが、何もせずに不安不安というだけでは、なにも解決しないし、だれも協力してくれないというか、協力者も現れないし、協力したくても協力できない。
不安を理由に何もしないことを選択する人がいる。
他方、不安だからこそ、不安の芽を摘む行動をとる人がいる。
ここで今の住居でこのまま子育てが人生が終わっていいのだろうかという漠然とした、悶々とした不安。
不安だ!イヤだ!なんとか脱出したい!今の暮らしを変えたい!
その不安の芽を解決するのが、私たち小川の家です。