人間:小川勇人の人生②〜幻のスピーチ原稿より〜
============================
次に、「ここ※公志園に至る経緯」について
私は大学で土木を専攻し、砂漠に道路をつくりたくて、ゼネコンに就職しました。入社して数ヶ月後、父が宅地開発事業の拡大に挑戦していることを知りました。ゼネコンで働くうちに、父の挑戦の難しさが分かり、海外勤務の夢を諦め、父の事業を手伝うために、長崎に戻りました(1997年)
当初は跡を継ぎ、事業の拡大が目的で
早い話、儲けてお金持ちになりたかった
いろんなセミナーに参加して「売れる家」つまり、目先のニーズに対応して「安さ、便利さ、広さ」を最優先した家をつくって、売っていました。
完成した建物に入ると、目がチカチカ、鼻にツンとくる匂いです。
「換気すれば大丈夫」「新築の匂い」
これが世間や住宅業界だけでなく、私の常識であり認識でした
しばらくして、自分がつくった家は、(合法的)シックハウスだと気づきました
違法ではありませんが「このままではマズイ」と
お金や法の問題ではなく、私の生き方が問われていると考えました
一方、経営環境は、住宅需要の落ち込み、地価の大幅下落、超ローコストメーカーの参入など、一気に悪化していきました
そんな中、新しい事に挑戦しても成果が出ず
すべて責任転嫁して、父と衝突ばかりしていました
ついに謹慎1ヶ月、要するに、勘当です
日本に居場所がなくなり、海外へ行きました
会社をやめる、つまり、親子の縁を切る事も考えましたが
どうも中途半端な気がして、帰国後、父に頭を下げ、一からやり直すことにしました
やり直すといっても、すべて行き詰まっていましたので、原点に戻り
「そもそも家って何だ?」と
住まいの本来の役割について、建築士の姉とゼロから考えました
そこでたどり着いたのが「子育て優先」です改めて日本の住環境を見渡すと、
いかに「子育て」を無視してつくってきたかを、初めて認識しました
そこでまず、子育てにおける住まいの重要性を知ってもらおうと
小冊子を行政に寄付したり、講演やセミナーもやってみました
しかしそういうやり方では
本質的な問題は、何も解決できませんでした
困っている人にどうすれば伝わるのか、必死に考えました
そしてネットを活用して、情報発信する手段に切り替えました。7年前です
周りからは
「長崎の工務店なのに、全国に情報発信してどうする」
「ほかの業者の営業に協力するだけで、一円にもならない」
まさに、その通りです
ただ私には3つの考えがありました
まず、 長崎で仕事をさせてもらうためにも必要
次に、私の受注につながらなくても、誰かの役に立てばよい
最後に、日本の子育ての住環境を何とかしたい
私は工務店の2代目ですが、大工でも現場監督でもありません
そもそも「子育て優先」は、エリア販売の話ではなく
「正しいと思ったこと」だったからです
とはいえ時間との戦いでした
なぜなら、事業の借金が10億円あったからです
金融機関からは
「理想はいらないから、とにかく早く売って借金を返してください」 と
「いや、正しいことをやっているだけで、借金を返すためにもこれしかないんです」と
何度、何年、説明しても、話はかみ合いませんでした
ただ、私は腹をくくっていました
「全部突っ込んで、必死にやって、子育て優先が間違っていたら、足を洗う」と