人生をかける
社会イノベーター公志園全国選抜大会にて
「人生をかけて、成し遂げたいことは何ですか?」
という設問に対して
なぜそう考えるのか、
そのためにはどうしたらよいのか、
それは多くの人から共感が得られるものか
という観点で採点される
私の人生観には、
「人生」という大きなくくりで物事を考えるというものが、ない。
なぜなら「世は無常」に基づいて生きているから。
人生は長い、というが、
そこには自分が平均寿命まで当然生きているもの、という前提がある。
だから上記の質問の前提も
「80まで生きているわけだから、その間に何を成し遂げますか」となっている。
私は別に生き急いでいるわけじゃないけれど、
今日明日を、今を大切に生きることに全力を注いでいる。
人生をかけてやりたいことというより、
今日の命を使うに値することにしか命は使わない。
私の叔父は、20年前、出張先のアフリカで亡くなった。
当時18歳、高校卒業直後だった私は、
遺族の一人として、ケニアまで遺体を引き取りに行った。
それがはじめての海外だった。
そして、叔父さんが亡くなったその場所に立ち
「世は無常」の意味が分かった。
子どもの命もやはり、無常だと思う。
だから、今日一日、彼らがどういう環境でその命を使うのか、
私は大切に見守りたい。
劣悪な住環境を子どもに与えながら、
今でも金銭的には可能であるにもかかわらず、
金利だとか、景気だとか、地価とか、利便性とか、
その次元のことで、子どもの命が消費される場を
劣悪なままで放置しておくという家庭観、子育て観を
私は理解も共感もしない。
大切な命を
寒くて陰気なアパートの一室で使うもよし、
心豊かで健康に暮らせる小川の家で使うもよし。
前者であれ後者であれ
命を何に、どう使うかは、本人次第。
少なくとも私は
小川の家を必要として下さる家族のためだけに、
この命をつかう。