先週、大切なものを踏み躙られたのだ。
先週、明後日の方向から、いきなりやってきた。メールを読んで数秒で怒髪天とはまさにこのことだった。
出社してきたベテランの宮田くんが「PCに向かう僕の後ろ姿から、相当怒っているのが伝わってきて、挨拶の声かけを控えた」というほど。
直観的に、戦闘モードになった。これは絶対に守らなければならない、と。大切なものを踏み躙られたのだ。極めて神聖な場に土足で入ってきて、である。
要求には様々なものがある。対応できるものとそうではないもの。後者にも二つある。やりたいけれども、例えば経済的な理由、時間、労力、マンパワー、物理的な問題などで、できないものもあれば、価値観、思想信条に反するものもある。今回は、後者。絶対に譲れない、譲るというか、失ってはいけないものだった。だから、闘うと即決。直感と本能に従う。
間違ったことを正しくやってもそれは間違いである
間違った考えに基づいて、それを正しくやっても、それは間違いです。その間違いとそれに伴う犠牲、搾取、被害は、時間経過とともに、関係者が増えるとともに、顕在化してくる、潜在的(陰湿な犠牲)になっていく。
今回は、従業員の生活を守ること、でした。
でもそれは実質的な問題であり、本質的な問題は、
人を大切にすること
働いてくれる人を大切にすること
代金は速やかに支払うこと
約束を守ること
という原理原則を踏み躙った要求だった。だから、徹底抗戦する。人間には尊厳がある。労働者には尊厳があるのだ。
強者に対して、闘っても勝てる保証がない、だから闘わない、という生き方を僕は選択しない。
冒頭の要求に関しては、全従業員に関わる問題なので、少し考えましたが、正直に説明した。そして、僕の考え、論理と反論についても。そして、私たちに与えられた選択肢(3つ)についても。
間違ったことを正しくやってもそれは間違いである。
今回の要求で言うと、(私からすると)間違った判断・指示に基づいて、(その)指示に(私が)正しく従うと、どうなるか?目先は指示に従った、要求に応えた、その先は?誰がハッピーになるのか?それが続く未来は明るいのか?と想像すると、そんなことはない。つまり、私の価値判断基準からすると間違っている。
正しい判断・行動をする、その結果、状況を好転できるかもしれないが、敗れるかもしれない。でも、間違っているとわかっていることをやることは、どうなのか?それはなぜ私は従うのか?個人の倫理観が問われる。相手の(要求の)問題ではなく私の問題である。私の生き方が自分に問われる。例えば、会社の不正に手を貸す人もいれば、反対する人もいる。後者は首になるか離職するか、左遷される。
大切なものは目に見えないけれど、踏み躙られた時に、怒りとなって、出てくる。
覚悟を決めて、闘う。論点と事実を整理して。
「本当にそれは正しいことでしょうか?」という問い直しである。
ミサイルが撃ち込まれてきて、反撃したら、もっと酷い目に遭うかもしれないから、黙っておく、なんてタイプの人間ではない。
結果、大切なものを守ることができた。話が通じて、よかったです。
他方、失ったものもある。闘えば無傷ではいられない。
守るというのはそういうこと。犠牲を払う価値があるから守るのだ。
怪我しようが何しようが、首を差し出してでも、守るべきものがある。
人として、ということに加えて、株式会社の経営者として、どう生きるか。父に揮毫してもらったのはこういう時のためでもある。
戦場で、真っ先に、命を失うのは、死ぬことを怖がっている人だという。私がこの事業、この仕事で生き残っているのは、商売やビジネスで死ぬこと=失業、廃業、失職を怖がっていないからだと思う。矜持がある。
さて、今日もまた大切なものを大切にする旅の1日が始まります^^