時間は命。子どもの命を大切にする親は子どもの時間で決断する
あなたにとって命とは?
社名変更のご報告をしたところ、素敵な画像が送られてきました
逞しく育っているのが一目瞭然です。涙が出ちゃいました^^
「命が奪われる」という時、対象となる命とは、生死の問題。
普通に生活していると、命を奪われる、なんて考えないし、受け取らない。
「命を大切に」というとき、その対象は、生死だけなのだろうか。自死や他人を自死に追い込むほどの行為だけが対象なのだろうか。
「子どもの命が大切」というとき、それは生死だけの問題なのだろうか。
私は、命@大人をこう定義しています
時間×労力×お金
命@子どもの場合
時間×労力×意欲
生きるとは命を消費する行為だと思っています。より良い人生、よりよく生きる、というのは、自分や周りの人の命を何にどう使うか、日々の出来事だと思います。お金をどうやって稼ぐか、お金を何にどう使うか。時間と労力もセットです。
子育ての家は、子どもの命を大切にしています。
子どもの時間と労力と意欲を大切にするわけです。それが思う存分発揮できるような住環境を子どもに提供することを目的としています。子どもが子どもでいられる時間は明確です。巣立つ日はタイムリミットです。もちろん、障がい等の理由で、自立が困難という場合もありますが、とはいえ、誰にでも幼少期は存在し、その時間は平等です。その与えられた時間をどんな気持ちで、何にエネルギーを使って、生きていくか、育てていくか、育っていくか、これが住環境次第でまったく異なります。
大人のつべこべってのは、所詮、損得勘定になっていくだけなんですよね。欲望にはキリがないし、他人と比べては、隣の芝生は青く見えるし、そういう比較の価値観で生きると、羨望や卑屈さにずっと苛まれる。
子育ての家に必要なものは明確でシンプルです。健康に、自由に、のびのびと、安心、安全、明るく、開放感があり、風通しがいい、親の身の丈にあったいる、そして、寛容な隣人に恵まれるとなお良い。
子どもの命を大切にするっていうのは、損得勘定じゃないし、打算でもない。これをやれば、これだけ見返りがある、だから、やる(やらない)とか、そういうものさしでは計れない。
この1年、この半年、この3ヶ月、この毎日を、どう生きるか。子どもの命をどこで使わせるか。すべて親の判断であり、責任です。