妻という家政婦。子どもというペット。
「家なんか、いらない」
この考えは、モノを所有することにこだわらない夫が妻に発する言葉です。
あるいは、
「建てるけど、いま、じゃない」
「いつ?」
「様子をみて」
家をハコモノとしか認識していない場合、
家なんか、面倒くさいだけの存在になる。
小川の家とは
家族が心豊かで健康な暮らしを得るための道具です。
その過程である子育て優先の家づくりは、
道具を手に入れるための手段です。
夫が子育てにおける、家族の暮らしの質を決める上で、
住まいの重要性を認識したにもかかわらず、
それでもなお
「家なんか、いらない」
一日一日、急成長していく、
かけがえのないわが子の命を見てもなお
「様子を見て」
なんて、のたまうということは、
つまるところ、腹の底で
「家庭なんか、いらない」と暗に通告しているのです。
妻は、妻ではなく家政婦に過ぎず、
子どもは、子どもではなく、ペットに過ぎない。
実態は、
単なる戸籍上の家族であって、家庭がない、となる。
妻は、家政婦なのか?
家政婦になるために、妻になったのか。
子どもは、ペットなのか?
ペットの代わりに、子どもは生まれてきたのか。
夫は、結婚という体裁が欲しかっただけなのか。
幸せな家庭を築くために結婚したのではなかったのか?
住まいの重要性を認識し、
妻と子どもの要望をきいてもなお、
「家、不要」の選択をし続ける夫は、
家庭の存在を無視しているといわれても、
仕方がないような気がする。