教育は受験の為に存在する?
母が私に
「論語とか、勉強しよるとやろ(しているんでしょう)」
といって一冊の本を持ってきた。
私「何これ?(母が読んだ本だと思い)要らんよ」
母「あんたの、教科書よ。論語ば勉強しよるごたっけん、見つけてきたと」
まったく記憶なし、、、
中をパラパラっとめくっていくと
どうみても、私の文字。しかも、かなり勉強した様子が伺えるが、一切記憶がないし、生きていく上で、仕事をする上で、必要としたこともない。つまり、卒業して18年、漢文の原文を現代語訳する能力は、(一般人には)社会から求められていないし、21世紀はますます求められなくなる。
孟子や孔子の教えから、学ぶこと、学べること、学ぶべきことは数知れず。
生きていく上で、必要不可欠な心構えや物事の本質の捉え方を彼らは後世に伝えてくれる。
せっかくそういう賢者の知識や知恵があるにも拘らず、
私が受けた高等教育においては、その本質を教えてもらうことはなく、
ある意味、象形文字の解読を数百時間もかけて「受験の為」に費やした。
まず大切なことは、漢文を通じて、教えの意図、真意を時代に即して、叩き込むことであり、象形文字を訳することではないはず。漢文に興味を持った人間が、大学や大学院、研究者となって、原文を訳すればよいのであって、知識教養レベルであれば、現代語訳を教えるべきであり、学ぶべきです。
20年前の私の高校時代は、この教科書でした。
現在、もし同じ教科書を使っているとしたら、その授業を先生を信じて頑張っている生徒たちは、激動の社会を生き抜くための「基礎知識」を身につけてもらえているのでしょうか。