夫婦不仲から、家族‘愛’へ。
先週、S様(神奈川県川崎市在住)の建築地が決定した。
「豊かな心で健康に暮らせる」土地に決めて下さった。
その区画は、
私が提示した候補地(3分譲団地、約10区画)に足を運んで見て回った時、
「ここしか、ない」と「勘」じた土地であり、
(別行動で回っていた)ご主人も同「勘」であり、
めでたく、その土地とご縁がありました。
私は単に「家が建つ」という土地を選定し、
提示しているわけではありません。
そして同様に、(予算内という意味で)買える、
通勤○○分以内、○○エリア、○○沿線等という、
そんな次元の物差しを最優先して選定・判断しているわけでもない。
※通勤できないような土地もあり得ない
私の物差しは、
「どこのどの区画なら、○○さん家族が、
小川の家に期待した暮らし=
○○さんにとっての豊かな心で健康な暮らしが実現するか」です。
期待値と(引越し後の)実態がかい離していれば、
「騙された、失敗した、不快」となり、
「小川さんに頼まなければよかった」となる。
これはですね、私にとっては、最悪です(苦笑)。
約束を破ったことになるし、何より、
(法的責任はなくとも)一生恨まれる(苦笑)。
自分の命を使った仕事の結果として、
世の中に幸せではなく、
不平・不満・不幸を生産しながら、
自分が幸せになれるなど、あり得ないし(苦笑)
本題へ。
ギリギリの局面において、
私は(夫婦が)決定できるかどうか、
最も重要不可欠な要素は
「夫婦仲」だと認識していました。
子どもがイキイキ健康に暮らせることを最優先できないのは、
要するに、夫婦、不仲である、と。
でも、様々な経験を経て分かってきたこと、それは
ギリギリの局面において、
前向きな判断・決定ができるかどうかは、
つまるところ、家族‘愛’の有無、である、と。
‘愛’を持ち出すなど、胡散臭そうですが、
‘愛とは与えること’ と言われます。
自身が妻、夫、子どもに、
いま、与えるべきものは何なのか。
何を与えることができるのか。
そのためには、何をすべきなのか。
「子育て優先」あるいは、
「家族の豊かな心で健康な暮らし」を
決めきれない夫婦というのは、
夫婦仲が悪いのではなく、
条件が悪い(気に入らない)のでもなく、
要するに、
家族愛が欠如しているだけではないか、と。
※断定してもよいのですが、、、
愛=犠牲と捉える人には、
愛という概念が理解できないと思いますが、
小川の家を選んでくださるご家族に接するたびに、
家族を、奥さん(ご主人)、子どもを愛しているんだろうなーというのが、
ジワーと私には伝わってきます。
Sさん夫婦を通じて、
これが、愛、なのね、と
再認識させて頂きました。